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AI・HALL協力公演

サイトウマコトの世界 vol.5

春の祭典

黄昏れる砂の城

センチメンタル

​アンタイトルド

2016年10日(金) 11日(土) 12日(日) A / B プログラム 各2回公演

​伊丹市立演劇ホール AI・HALL にて

Aプログラム

春の祭典 (生贄の乙女:辻史織)・アンタイトルド・センチメンタル

Bプログラム

​春の祭典 (生贄の乙女:斉藤綾子)・黄昏れる砂の城

春の祭典 新作

音楽:イーゴリー・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー

生贄の乙女:辻史織 / 斉藤綾子

未婚の母親:本多由佳里

北原真紀 長尾奈美 佐々木麻帆 増田律夢 

中谷仁美 宮崎安奈 八木梨莉子

アンタイトルド 2016年1月初演

音楽:Von Magnet

東福寺弘奈 宮原由紀夫

センチメンタル 2007年8月初演

音楽:井上陽水 Allies

北原真紀 サイトウマコト

黄昏れる砂の城 2009年11月初演

​音楽:あがた森魚 坂本龍一

関典子 長尾奈美 ヤザキタケシ 宮原由紀夫

構成 演出 振付:サイトウマコト

舞台監督:今津幸一 (感動制作所)

照明:石谷幸代

音響:日本有香 (エスエフシー)

舞台監督補佐:西恵美子 (感動制作所)

ダンスアシスタント:斉藤綾子

衣裳:斉藤DANCE工房

   長尾奈美

パンフレット写真:山下一夫

撮影:井上大志 (Leo Labo)

解説:上念省三

主催:斉藤DANCE工房

協力:伊丹市立演劇ホール AI・HALL

   ダンスの時間プロジェクト

『センチメンタル』を「ダンスの時間」で再演した時、ブラヴォー!と鳴り止まない拍手に、一度引っ込んだ2人を呼び戻しに歩いたことが、忘れられないでいる。この奇妙な作品の、何が観客の心を沸き立たせたのだろう?

 ブラヴォー!と叫んだ紳士は、若い頃に傷つけあって別れた愛らしかった彼女のことを思ったのかもしれない。

……そんな彼女などいなかったとしても、だ。

サイトウの作品を見ていると、あり得たかも知れない架空の過去を思い出して甘い悲しみにひたるような〜それをセンチメンタルと呼んでもいいが〜抒情にとらわれる。過去に失っていたかもしれない、傷つき傷つけたかもしれない、でもふれたことのない大切なものを、限りなく惜しむようなせつなさに襲われる。

 サイトウが描き出すダンスの抒情は、せつない音楽とも相乗して、観る者の自分自身を美しく哀しくつらく彩色する。これから『春の祭典』を目にするに当たり、生贄の乙女に向かって、覚えのない罪悪感に襲われぼろぼろになる自分が予感できて、恐ろしい。

​(チラシ裏面より) ダンス批評・上念省三

サイトウマコト 当日パンフレットコメント

アンタイトルド

文字通り題名のない踊りです。東福寺弘奈、宮原由紀夫という抜群の組み合わせこそがこの踊りのタイトルです。お楽しみ下さい。

センチメンタル

この作品はある男の若き青春時代の思い出。「妄想」の物語です。

中年男のアグレッシブさ「頑張りの呼吸」そんな中年男独特の呼吸があるとわたしは信じる。

コミカルで悲壮感がありしかし 諦めない、粘る、しつこい、愛らしい。そう言う呼吸が中年男のダンスには潜んでいる。

相方ダンサーの北原真紀は 見るからに気丈です。決してぶれない決意の女です。それが今回の作品にピッタリだと感じ 8 年前の初演から一緒にこの作品を作ってきました。リハーサルが佳境に入り集中力が増した時出てくる彼女の東北弁は、私に色々な物語の妄想を駆り立てる。

と同時に彼女が初演した震災前と今とでは日常とか普通とかいうことについて、あまりにも深く厳しい思索が必要であったろう。

井上陽水の曲を聴く度に感じる「甘さ」それは甘ったるさでもあります。

しかしその甘ったるさも井上陽水の圧倒的な歌声の前に feminine (フェミニン) な甘さに変えられて行きます。

そこが作品全体を包み込み、作品に大きな影響を与えていた。

今年で 58 歳になる私にとってはいつまでも踊れないと思う反面

この作品はいつまでも踊る事の出来る作品だと信じて今日も踊ります。

黄昏れる砂の城

あがた森魚の歌の中に『黄昏れる海の城』と言うのがあります。泉鏡花の『春昼』『春昼後刻』と言う小説に想を得て、その小説に出てくる砂浜とあがた森魚の歌に出てくる浜辺が繋がりました。そこから黄昏時の砂浜に残された砂の城がゆっくりと崩壊して行く情景を思い浮かべました。

小説を読み返し 4 人の登場人物を必然の無いまま登場させました。道ですれ違っただけで命がけの恋をし、後に恋いこがれて海の底で漂う死体になった「客人」という男にヤザキタケシ 。恋の相手 絶世の美女「玉脇みを」に関典子。客人が夢の中で出逢う天真爛漫な玉脇みをを長尾奈美。そして後にこの場所を訪れてた散策師 (玉脇みをはこの男と海で死んだ客人を同一視しているようだ) には宮原由紀夫。小説では男女の恋の話を聞く散策師の目で全ての情景が成り立っている。それで何がどうなったかでは無く、このような背景の或る男女が時空を超えて同じ場所に居合わせたらどうなるか?これは私の中では「こうなる!」と言う必然が生まれます。話は単純です。道ですれ違っただけの男女。男は恋い焦がれて海の中に消えて行く。女はその死体を追いかけて海の中へ男に会いに行く。

うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき

春の祭典

ストラヴィンスキーの『春の祭典』は今まで多くの振付家によって名作が誕生しています。この曲の中に出てくる長老や生贄、賢者について考えました。今の時代の生贄について。そのとき浮かんだのが「コインロッカーベイビー」です。小さなボックスに命が一つ。そしてその前を行き交う通勤途中の大勢の人々。団地でベランダ越しに話す 1970 年頃の主婦の姿。その時代の未婚の母の困惑。狭い闇の箱の中で、大都会のど真ん中である事も知らずに人知れず深い眠りにつく嬰児。そんな「嬰児の夢 (みどりごのゆめ) 」が今回の「ハルサイ」です。嬰児にとってコインロッカーは胎内であり、そこで外の世界に出て行く事を永遠に夢見ているのです。長老であり巫女である母親の心の冷たい底の中には、生贄をこの社会に差し出し己の許しを請う、もう一人の自分がいます。もう一人の自分に気付きさえすれば、嬰児を救えたであろう。同じボックスでも今で言う「赤ちゃんポスト」のような場所でも、箱の中に命を置き去りにする行為は同じだ。

作品を作り始めた頃は、ただの小さな穴から生贄が出てくると言う事だけしか頭にありませんでした。

何故そう思うのか、作舞を続けながら思いを巡らせて行きました。

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